恋と喧嘩はシカの華 ヘラジカ

偶蹄目

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photo by:Robin_S
ヘラジカ(Moose)
分布:亜北極(アラスカ、カナダ、シベリアなど)
生息域:森林、渓谷、河川、湿地、沼地、ツンドラ
体長:240~310㎝(頭~胴)、5~12㎝(尾)
体高:140~210㎝
体重:200~700㎏

意外とケンカ好きな草食動物

 農耕牧畜がまだ栄えていない時代、人類はヘラジカを好んで狩っていたらしい。たとえばヨーロッパの岩絵や壁画では、ヘラジカに酷似した動物が登場している。また遺跡からもヘラジカのツノが発掘されており、時代同定によると紀元前6000年のツノであることがわかっている。

 ヘラジカは人間よりもはるかに大きな動物だ。現代でもシカ科の中で最大サイズを誇り、二番手のワピチと比べると30センチ以上も背が高い。生息域によりサイズや重量は上下するものの、重いヘラジカ―――アラスカや北米で暮らすヘラジカでは、オスの体重が700キログラムを超えることもある。これだけの大物なのだ。1頭しとめるだけでも、大人数の腹が満たされたに違いない。

 現代においてもヘラジカは人々を魅了してやまない。多くのハンターが立派なツノを求めてトロフィーハンティング(ツノや毛皮など戦利品を誇るための狩猟)に勤しんできた。人間が巨大なオスばかりを狩るものだから、ヘラジカのツノが矮小化する事態さえも起きている。

 ヨーロッパでは小さなオスばかりが生き残り、時代を経るごとに大きなツノをもつヘラジカが減っていった。地域によっては見栄えがする掌状のツノではなく、痩せこけて見える樹状のツノが一般化しているのだ。

生息環境、栄養状態、年齢などに応じてツノも変化する
(photo by:verticallimit)

 立派なツノに目を奪われるのは人間だけではない。オオカミやクロクマなど頂点捕食者に近しい動物であっても、ヘラジカのオスに対しては緊張した趣をみせる。「食うに困らぬほど巨大な獲物を狩れるかもしれない」という期待よりも、「万が一でもツノをぶつけられたら大怪我してしまう」といった恐怖が勝るのだろう。

 ヘラジカも腕に自信があるようで、肉食動物を見かけても逃げる素振りは見せない。むしろツノを見せつけるように頭を下げて、相手を怯えさせてから追い立てようとする。それは人間が相手でも同じことだ。ヘラジカによる人間への襲撃は、クマとオオカミの襲撃数を足した数よりも多いとの話も聞こえてくる。とても草食動物とは思えないほど喧嘩っ早い。

 意外なことに、ヘラジカはメスもかなり攻撃的な性格をしている。特に子連れの母親はつねに神経をとがらせ、近づいてくる動物に対しては問答無用に攻撃を仕掛けてくる。彼女たちはオスのようにツノを生やすわけではないが、硬くて鋭い”蹄”ならば備えている。

 また足の関節がとても柔らかく、横方向にも蹴り上げることができる。360度どこから近づこうとも、手痛い反撃が待っているわけだ。うっかり正面に陣取ろうものならば、両足で踏みつけられて怪我を負わされてしまうだろう。

ヘラジカはオスもメスも強敵だ。襲いかかるには覚悟が必要となる。実際、大人のヘラジカに襲いかかる動物はほとんどいない。トラやヒグマなど体格差があまりない巨大動物か、大規模の群れを組んだオオカミでなければ、ヘラジカを日常的に狩ることはできない。

意外とわがままな住居申請

 外敵から襲われる心配が少ないのだから、ヘラジカはどのような場所でも暮らしていけるように思える。だが実はそうでもないらしい。むしろ彼らはかなりわがままで、住まいに求めるものが多い。

 たとえば亜寒帯~温帯における森林地帯を好むのだが、この”森林”というのが曲者だ。若々しい草木が生い茂る「若い森」と、大木や背丈の高い草が視界を遮る「成熟した森」、どちらが欠けてもヘラジカは満足できない。

 若い森はいわゆる餌場だ。ヘラジカは牛や豚とは違い、胃があまり強い草食動物ではない。もし馬を育てるようにヘラジカに枯草を与えてしまえば、たちまち消化不良を起こしてしまうだろう。実際、100キロほど枯草を食べたヘラジカが、胃を圧迫されて死んでしまった事故も起きている。

 繊維質が多すぎる植物は消化できないので、彼らは柔らかい草本や若芽を選んで食べている。こうした植物は開けた場所に生えやすいので、必然的にあまり大木や茂みが見られない森―――若い森へ出向くことになる。

 それとは別に、ヘラジカは成熟した森も必要としている。襲われづらいとはいえ、つねに警戒態勢を保ち続ければ、エネルギーの消耗も激しくなってしまう。可能であれば茂みに隠れて、リラックスした状態で食休みしたいところだ。となれば、あたりが薄暗くなるほど鬱蒼とした森に身を置こうとするのは、間違った選択ではないだろう。

 成熟した森はさらに、避暑地や避寒地としても利用できる。冬は木々を壁にして雪風をしのぎ、夏は木陰で直射日光を避ける。体温調整を植物に頼ることで、効率的にエネルギーを消費できる。厳しい冬を越すためにも、またオスであればツノを育てるためにも、栄養はあればあるほど良い。節約できるならばそれに越したことはない。


 ヘラジカのわがままは季節ごとにも変化するようだ。夏はプールを御所望らしい。水に漬かるだけでは飽き足らず、泳いだり潜ったりと水遊びにも興じる。体を冷やして快適に過ごしたいのだろう。水草をおやつ代わりに摘みながら、彼らは日常的に水中へ身を置く。

photo by:Alex Butterfield

 水浴びをしている間はノミやブユの攻撃からも逃れられる。特にノミはかなり厄介で、対策しなければ凍死の危機に陥ることもある。ノミをかゆがって樹木に体を擦りつけるあまり、毛が禿げてしまう―――毛皮が薄くなって冬の寒さを凌げなくなるのだ。

 ヘラジカの夏毛は9月になると生え変わり、代わりに分厚い”冬毛”が伸びてくる。ところがノミの痒みに耐えかねて冬毛を樹木で擦ってしまうと、その部分が摩擦で削れてしまい、夏毛よりもはるかに短いものになってしまう。

 場合によっては皮膚が露出して、体全体が白っぽく見えてしまうこともある。地元ではこの状態のヘラジカを「Ghost Moose」と呼ぶのだとか。直訳すると「幽霊鹿」。死を連想させるその響きは、なんとも縁起が悪い。

 そして悪い予感は当たるものだ。毛皮へ潜りこんだノミは、冬を迎えてもヘラジカの血を吸い続ける。樹木でこすり落とすにも限度があるため、難を逃れたいくらかのノミが、毛皮で暖を取りながら生き残ってしまうのだ。

 結果としてヘラジカは、薄くなった毛皮のせいで寒さに震えながら、ノミに栄養を奪われ続けるという地獄のような冬を過ごすことになる。やがて寒さにも抗えなくなり、凍死とも餓死ともつかない悲惨な結末を迎えてしまう。


 悲劇を避けるためにも、ヘラジカは水場で涼を取りながら夏を過ごしている。一方、冬は雪が積もっている場所を好んで訪れるようだ。しかも”ほどほど”に積もるという条件まで付いてくる。具体的には積雪70センチ以上の地域が望ましい。

 雪が多すぎると植物が埋もれてしまい、エサを入手しづらくなる。また足が雪に沈んでしまえば、捕食者から逃げづらくもなってしまう。

 その意味では、雪が少なすぎる場所もやはり避けたい。移動しやすい場所を通りたくなるのは他の動物も同じだ。安易な道を選べば、捕食者―――とりわけオオカミと遭遇しやすくなってしまう。

 ヘラジカはそうした事情をすべて計算して、避寒地として過ごす場所を決めている。「エサの得やすさ」「捕食者との遭遇率」「移動のしやすさ」という3つの基準を組み合わせて、もっとも暮らしやすい土地を導き出すのだ。

 彼らは雪道でも歩きやすくなるように、蹄に特別な工夫を凝らしている。

 たとえば足に負荷をかけると、それと連動して蹄も広がっていき、地面と接している足面積が大きくなる。しかも蹄の先端にまで脂肪組織―――いわゆる肉球が詰まっており、これも地面との接点を増やしている。イメージとしては、スキー板を履いて歩くようなものだろうか。足と地面との接地面を広げることで、雪道でも足が埋もれずに歩いてゆける。

 なおヘラジカの蹄は、2種類の爪で構成されている。地面を踏みしめるための硬くて大きな”蹄”と、ぬかるみを繊細に歩くための小さな”狼爪”だ。この2つを使い分けることで、彼らはほどほどな雪道をほどほどな速さで走り抜けることができる。

 ちなみに体重あたりの足面積を考えると、ヘラジカの蹄はブロングホーンとトナカイの中間に位置するそうだ。前者は狼爪をまったく持たないため、蹄全体がかなり硬い。地面を力強く蹴って、最高速で走りやすくなっている。後者は逆に、狼爪がかなり発達しており、深い雪を歩いてもまったく足が取られない。蹄ひとつとっても生活環境の差が表れるというのだから、面白い話だ。

 ともあれヘラジカはさまざまな地形を使い分けながら暮らしている。森林、水場、雪道…。条件が合うのであれば、沼地や湿地帯、ツンドラ、渓谷といった地形も利用する。あるいは季節に応じて旅をすることも珍しくない。彼らは自分が置かれている状況を正しく理解して、より素晴らしい環境を見つける能力にも長けているわけだ。

効率よく、際限なく食事を続ける

 どんなに小さなヘラジカでも、成熟すれば体重200キロを超える。それだけの巨体を支えるには、膨大な量のエサが必要だ。特に夏場は冬に向けて栄養を蓄えなければならない。エサ探しに1日8~9時間も費やして、体に脂肪を付けていく。

 効率的に食事をこなすためには”唇”のはたらきが欠かせない。人間が手さぐりで暗がりから目的物を見つけ出せるように、彼らは唇で触れるだけで、それがただの石ころなのか、それとも美味しい新芽なのかを判断できる。

 また人間が指でモノを掴むように、彼らは唇を器用に動かしてエサを口元まで運べる。タンポポを根元からごっそりと引っ張り出したり、新芽だけをそっと掴んで抜き取ったり、エサに応じて動作も変えることができる。

 唇は繊細でありながら頑丈でもある。舌や歯茎も同じように硬くなっており、枝や樹皮を食べても怪我をする心配がない。硬いエサでも食べ方を気にせず口へ放り込めるので、彼らは速度をまったく落とさずに食事し続けられる。


 他の草食動物では手が出せない植物を入手できることも、彼らの強みだろう。後脚2本で立ち上がりつつ首を伸ばせば、高所に生える葉を食むことができる。大きなヘラジカでは5.5mの高さまで届くそうだ。

photo by:GPoulsen

 水底に生える水草にも目がない。ヘラジカは水中でも30秒ほど息を止められ、そのまま水深5メートルまで潜ることもある。あるいは水面に顔を付けたままエサを嚥下するという、水生動物のような特技も披露してくれる。筋肉をうまく動かして鼻に脂肪組織を詰めて、水を飲んでしまうのを防いでいる。

 水草は食事の半分を占めることもあり、彼らが水遊びを好む理由にもなっている。栄養こそ少ないが、”塩分”も補ってくれる水草は頼もしい存在だ。地上に生える草を食べるだけでは、ナトリウムが不足しかねない。

 事実、冬になると彼らは道路にたむろして、人間が撒いた塩を舐めようとする。氷雪を溶かすための溶解剤には”塩”が多分に含まれるため、彼らの目には手ごろなサプリメントに映るのだろう。

 そうまでして摂取したいナトリウムを食事ついでに得られるとなれば、これほど嬉しいことはない。水場に立ち寄ったヘラジカはその深浅に関わらず跳び込んでいき、新鮮な水草を胃に詰めていく。

オスはツノを育て上げる

 ヘラジカにはいくつか亜種が存在しており、中でもアラスカで暮らしている者たちは、身長や体重がもっとも大きくなる。それはツノに関しても同じことで、アラスカ産のツノは幅2メートル、重量38キロを超えることもあるのだという。

 これほど巨大な装飾物を身に着けることもそうだが、それをわずか半年足らずで完成させるという形成速度にも驚かされてしまう。ツノは春の訪れとともに生え始め、だいたい3~5か月で最大サイズまで成長する。そして交尾期になるとツノを突き合わせたケンカに利用され、冬の訪れとともに役目を終えて抜け落ちていく。

photo by:PaulMosca

 栄養をたくさん注いだというのに、それを捨ててしまうのは勿体なくも感じる。だがヘラジカのツノはあまりにも大きい。維持コストが膨大なものとなるため、結果的には落としておいたほうがエネルギー効率も良くなる。

 彼らのツノは単純に重たいので、頭に乗っているだけでエネルギーを食ってしまう。そればかりか、体温が逃げていく出口にもなってしまう。エサが少なく低温に晒される時期―――冬を越すためには、これほど邪魔になる存在もない。

 ただ、落ちたツノにも利用価値はある。ツノはタンパク質の塊であり、見方によっては”巨大なエサ”と言えなくもない。実際、落ちた自分のツノをつまみ食いするシカもおり、他にもネズミや小鳥が寄ってきてはツノを齧ろうとする。

 ただし未成熟なヘラジカは冬になってもツノを落とさず、そのままツノを維持するのだという。ツノを捨ててまた1から育てるよりも、エネルギーを払ってでもツノを維持したほうがお得だと判断するのかもしれない。あるいはまだ未熟なヘラジカには、外敵を追い払うためにツノという武器が必要なのかもしれない。


 ”ヘラ”ジカとはよく言ったもので、彼らのツノは最終的にヘラを思わせる扁平な形に落ち着く。あるいは”掌状”と称されることもある。手が空いているのであれば、親指の爪と爪、付け根と付け根をくっつけるように合わせみてほしい。その状態で他の指をすべて広げてやれば、手のひらと指でヘラジカのツノを再現することができる。掌状と呼ばれている理由にも納得してもらえるだろう。

 ただ、彼らのツノは最初から掌状をしているわけではない。生え始めのツノはまだ短く、形としてはバイクのハンドルグリップを彷彿とさせる。そこから徐々に平たく伸びていき、さらに枝分かれの起点となるボタンのような”包み”も生やしていく。そして時間とともに幹の部分は太く、枝の部分は長くなるように成長していく。

 ヘラジカのツノは、メスがオスを図るための指標にもなる。大きければ大きいほど、枝分かれが多ければ多いほど良い。あるいは左右対称になっているのかも重要だ。栄養が不十分だと、ツノを片方しか完璧に育てられない。非対称で歪なツノに育ってしまう。

メスからモテるためにも、ツノは立派に育てなければならない。オスたちは必死に栄養をかき集めていき、夏場は1日で32キロものエサを食べることもある。


 根元こそ骨でできているが、ヘラジカのツノは基本的にケラチン―――毛や爪の材料と同じ物質から作られる。彼らの血液中には”毛包”と呼ばれるタンパク質が多量に含まれており、これを表面に蓄積させることで、ツノを急激に成長させている。

 制作の都合上、ツノには”生きた”血液が必要となる。ゆえに成長中のツノは皮膚に覆われ、そのすぐ下にある血管を通じて毛包が与えられる。毛包を運び、ケラチン化させ、また毛包を運ぶ。これを繰り返して、徐々にツノを大きくするわけだ。

 ツノは表面が毛だらけになるため、「ベルベットのようなツノ」と評されることもある。ベルベットとはいわば絨毯のことで、ぬいぐるみのようなフワフワとした質感を言い表している。

 だが繁殖期が近づくとベルベットも役割を終える。その奥にある艶やかなツノを露わにすべく、オスたちはベルベットをそぎ落としてしまうからだ。彼らは手ごろな樹木を見つけると、ベルベットが剥がれ落ちるまでツノを擦り続ける。

 なおツノはまだ皮膚の血管と結びついているため、ベルベットを剥がすと流血が生じてしまう。血まみれのツノに破けたばかりの皮膚を垂れさげる姿はなかなか衝撃的で、ツノを用いてなにか獲物でも仕留めたのかと疑いたくなるほどだ。

 ベルベットを落とし、こびりついた血も濯がれると、ついにヘラジカのツノは完成を迎える。艶のある光沢がまぶしく、樹枝を思わせる質感もツノの硬さを物語っている。オスたちはそう遠くない日、ライバル相手に自慢のツノを振るうことになるのだろう。

興奮覚めやらぬ繁殖期

 8~9月、繁殖期を迎えるとオスたちは落ち着かない様子をみせる。中には目を血走らせたり、よだれを垂らしながら歩く者もいる。誰も彼もがメスに呼びかけ、メスにアピールし、メスを追いかけまわそうとする。

 典型的なヘラジカは、メスを呼ぶために”におい”を利用しようとする。穴を掘ってそこで放尿し、さらに自らも穴へ飛び込んで転げまわるのだ。こうして自分のにおいを体にまとわせて、メスの嗅覚に訴えていく。

 ツノを草木に叩きつけて回ることもある。ツノに付着した尿のにおいをあたりに撒き散らすためだろう。あるいはツノに丈長の草をまとわせたまま歩き回る。左右どちらのツノにも目いっぱい草を盛り、アフロヘア―のようになってしまったヘラジカも目撃されている。

 これは嗅覚ではなく視覚に訴える作戦なのだろう。草そのものには魅力を感じないだろうが、草を載せてボリュームがあるように見せかければ、メスがそのツノを実物以上に大きい―――魅力的だと錯覚するかもしれない。

 聴覚に訴えることも忘れてはならない。オスはまるで咆哮するような激しい鳴き声でメスを呼ぶ。とても草食動物とは思えないその鳴き声は、500メートル先まで届くこともある。


 メスを呼び寄せることに成功したオスは、メスの後を追い回すようになる。メスが関心なさげに振る舞おうと、鬱陶しがって茂みに隠れようとお構いなしだ。歯茎を剥き出しにしながら顔をメスの尻へ近づけ、時折、舌で舐めまわすような行動も取る。

 これは”フレーメン反応”の一種であり、そのメスが発情期を迎えているのかを確認するために行われる。嗅覚器を口腔内にも備えているため、メスのフェロモンを”飲み込む”ことで、より詳細にメスの状態を察知しようというのだろう。

 ただしこの驚異的な嗅覚には、代償が必要なのかもしれない。オスのヘラジカには、繁殖期を迎えると食事を一切取らなくなるという奇妙な特性が備わっている。そしてこの特性は、嗅覚を鋭くするために生じた”副作用”なのではないか、ともいわれている。

 いわく、繁殖期になるとヘラジカのオスは、メスのにおいを認知しやすくなるように神経構造を変化させる。その際に神経のはたらきが狂い、食事に目が向かなくなるのではないか、という説だ。

 実際のところはわからない。だがオスたちがメスを求めて躍起になり、食事も忘れて繁殖活動に勤しんでいることは間違いない。そうした狂おしいまでの興奮に身を包まれながら、オスたちは2週間にわたる恋愛劇を繰り広げていく。

photo by:PxHere


 メスも受け身でオスを待っているわけではない。オスのにおいがする方向へ近づいていき、オスが掘った穴を見つけるとその中で転げまわる。オス同様、自分のにおいを残して嗅覚に訴えようというのだろう。

 あるいは厳しい目でオスたちを選別することもある。体が小さいオス、ツノが非対称なオス―――不健康なオスはお断りだ。そのようなオスに付きまとわれると、メスは抗議の鳴き声を上げる。より大きくて魅力的なオスを呼び寄せて、好ましくないオスと闘わせるのだ。

 そうして間接的にオスを間引き、彼女たちは理想的なオスとだけ関係を築いていく。残念ながら、ヘラジカの世界では若いオスが繁殖の機会を得ることは難しい。初めてメスと交わるのは、平均して5歳ごろになるという話もある。

 気が強いメスの場合、その敵意はオスだけでなくメスにも向かうようだ。ヘラジカは一夫多妻制を採用しており、強いオスが何頭かのメスを集めて守っている。

 だが他のオスからはメスを守れても、メスがメスを攻撃することまでは防げない。1頭のメスがオスを差し挟んでもう1頭のメスを攻撃し、そのまま追い出してしまうこともある。メスはメスで、より有利な繁殖条件を目指そうと必死なのだろう。


 互いにツノをぶつけあうオスのケンカに比べれば、メス同士のやり取りはささやかなものだ。30キロを超える鈍器で殴り合うのだから、弱いオスが参加すれば命を落としかねない。実際、衝撃でツノが欠けてしまったり、足にツノをぶつけられて負傷する者もいる。

 あるいはツノの枝が絡み合ったまま外れなくなり、2頭ともそのまま動けずに餓死してしまうケースもある。他にもケンカの最中に捕食者から襲われやすくなるなど、オス同士のケンカは想像以上にリスキーだ。

 モテたいけれどリスクは取りたくない。そんな葛藤からだろうか。オスたちはツノを突き合わせずとも勝敗を決する術も編み出した。単にツノの大きさを見せびらかして、相手に諦めてもらおうという戦略だ。

 同性と出くわしたオスは、横っ腹をみせながらゆっくりと相手の前を横切っていく。体の大きさを見せつけるためだろう。さらに頭を左右にゆっくりと揺らし、自分のツノがいかに素晴らしいのかを誇示する。

 酔っぱらいが千鳥足で歩いているようなユーモラスな行動だが、体格差を相手に悟らせて争いを避けるという、むしろ理性的な判断に基づいているのが面白い。

 とはいえ諦めが悪いオスや、体格の似ているオスと出遭うことも少なくない。その場合は、覚悟を決めて相手にツノをぶつけていく。

 ツノとツノがぶつかる音は、意外なほどに軽やかだ。ペットボトルを潰したような甲高い音があたり一面に響き渡る。無音となる瞬間もあるが、それはツノを絡ませ合いながら、互いに相手を押し合っている最中であることを意味する。

 いくらかの衝突を経て「敵わない」と判断すると、そのオスはあっさりと背を向けて去っていく。勝者もよほど興奮していない限りは、敗者を追いかけたりはしない。ただ静かに勝利を噛み締めて、メスの元に戻っていく。

photo by:PxHere

 メスが発情期を迎えるとオスはメスと交尾し、すぐに去っていく。繁殖期のやり取りで疲れ果てた体を労わりながら、今度は冬に向けて栄養を蓄えていくのだ。メスも数か月後には子育てに追われることになる。オスはツノを育て、メスは子を育てる。ヘラジカたちは育成の時を過ごし、またいつか争いの日々を迎えるのだろう。




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